8 少年的悲哀/少年の悲哀

8 少年的悲哀/少年こども悲哀かなしみ

国木田独步

【作品梗概】

这是一位男子少年时代的经历。在“我”8至15岁间,曾寄养在叔父家中,当时是名门望族的叔父家有大片的山林土地,还雇着七八个佣人。12岁那年,一位名叫德二郎的佣人要带“我”去一个有趣的地方,他身强力壮、精力充沛、性情温和,当地人对他有口皆碑。那是一个月光皎洁的夜晚,“我”和德二郎上了一条小船,驶向靠海的江湾,下了船,“我”又跟着他来到与他相好的妓女家。在这儿凭栏远眺,海港下游、田野边缘都可饱览无遗。在六铺席陈旧的屋子里,女人备好了酒菜。女人耷拉着脑袋,黯然神伤,接着又面带笑容,目不转睛地盯着“我”看。

原来这个女人的爹妈很早就死了,只剩下她和弟弟相依为命,但是弟弟12岁那年与姐姐分别后,就再也没能见面,女人不知弟弟现在是死是活。她很快将被人带去朝鲜,不知这辈子是否还能见到弟弟。因此,当看到她弟弟照片的德二郎说照片中的人很像东家少爷时,女人就求他无论如何要把“我”带来不可。那女人见到“我”开始就像见到她弟弟那样高兴,接着眼泪顺着她的腮边流下,进而双肩颤抖,呜咽抽泣,痛苦万状。“我望着远方的陆地,默不作声地听着。万家灯火辉映水面,摇曳不定。”“这时,在我幼小的心灵上,也涌起了一股不可名状的悲哀。”

从那一晚到现在已经十七年过去了,“我”已长大成人,德二郎也成了两个孩子的父亲,但那晚的情景却还历历如昨天,与她告别时,她久久地、一再地叮咛“我”不要忘记她,那声音让“我”永远不能忘怀。时至今日,她那张可怜的面庞仍在眼前,只要一想起,就会泛起“难以忍受的、深沉的、寂静的、郁闷不乐的悲哀”。

【作品鉴赏】

本短篇小说1902年8月发表在《小天地》上,生动地表现了初次体验人生悲哀的一位少年的心情。作者原本是个诗人和散文家,其创作在风格和表现手法上受英国诗人华兹华斯的影响,在反映自然美和描写技巧上有其相当的成就。华兹华斯的诗句“人情的幽音悲调”成了作者的座右铭,因此,这个短篇也可看作作者将其座右铭小说化的成果。

国木田独步的小说创作开始于明治30年代,初期作品主要描写自然与人类的交错,是抒情的、田园的;中期创作把注意力集中在被命运摆布的不幸的人身上,逐渐转向现实的、城市的、社会的方向;后期写下了不少对生活在社会底层人们深表同情的作品,但这些作品大部分只是停留在深表同情而挥泪写作,并未达到对强迫人们过这种不幸生活的社会进行批判或反抗的程度。由于作者在本质上是一位浪漫主义者,因此,他的根本思想决定他不是一位从历史、社会的变化中观察事物的作家,而是一位越过社会、使个人直接与永恒的事物结合,从中细察人类生存意义的文人。

日本文坛称作者是明治时代日本最优秀的短篇小说家,本作品很好地说明了这一点。他擅长把一些日本人难懂的汉文体掺和到断断续续、短小的西方文脉中形成一种独特的文体。文笔质朴却又击中要害。他的小说很多都像本篇一样写了在生活中感到难以忍受孤独而需要爱情的人物,把一些难忘的人放在难忘的环境中去描写,从人生平凡的事情中去观察不平凡的意义和人生的神秘,使读者能真切地领悟到比字面更为深远的意境。

本作品在低沉感伤的哀音中,准确地表现了对被侮辱、受损害的社会底层妇女命运的同情,同时,作者以平铺直叙、色彩清丽的笔触描写的盛夏月夜景色相当凄迷、含蓄、蕴藉,渲染了人物变化起伏的情感,富有诗意,亦形成一大特色。

选文一[1]

ころはなつなかつきかげさやかなるであった。ぼくとくろうのあとについてんぼにいで、いねたかあぜみちはしってかわつつみた。つつみいちだんたかく、ここにのぼればひろびろとしたづらいちめんわたされるのである。まだよいながらつきたかんで、さえたひかりにもやまにもみなぎらし、ずえにはもやかかりてゆめのごとく、はやしけむりをこめてかぶがごとく、ひくかわやなぎのずえつゆたまのようにかがやいている。がわすえはまもなくしおちふくらんでいる[2]ふねいたをつぎわしてかけたはしきゅうひくくなったようにゆるのはすいめんたかくなったので、かわやなぎなかみずしずんでいる。

つつみうえはそよかぜあれど、かわづらはさざなみだにたず、わたおおぞらかげうつしてみずおもかがみのよう[3]とくろうつつみをおり、はししたにつないであるぶねのもやいをいて、ひらりとると、いままでしずまりかえっていたすいめんがにわかにもんこす。

【选文注释】

[1]本节选自作品的开头部分,少年随仆人外出。盛夏月光皎洁的夜晚,薄雾缭绕的山野小河,如同诗画、梦境中一样。致力于表现从社会生活压力中解脱出来,到大自然中去感受“永远的呼吸”是作者常用的手法,显示了对砚友社都市文学的排斥,引发出对日本风土美的再认识的风潮。

[2]汐に満ちふくらんでいる:潮水涨满;满潮。

[3]此句意为河面没有一丝涟漪,波平如镜,万里晴空交映水中。ft

选文二[4]

ふねはしばらくたいせんしょうせんろくしちそうあいだいてすすんでたがもなく広々としたおきあいた。つきはますますさえてあきよるかとおもわれるばかり、おんなはこぐをとどめてぼくのそばにすわった。そしてまたつきあおぎまた四邊あたりまわしながら、

ぼうさま、あなたはおいくつ?」とたずねた。

「十二。」

「わたしのおとうとしゃしんじゅうときですよ、いまじゅうろく……、そうだ、じゅうろくだけれど、じゅうときわかれたぎりわないのだから、いまでもぼうさまおなじようながするのですよ。」とってぼくかおをじっとていたがたちまちなみだぐんだ。つきひかりけてそのかおはなおさらあおざめてえた。

んだの?」

「いいえ、んだのならかえってあきらめがつきますが、わかれたぎり、なったのかがたれないのですよ。ふたおやはやわかれて、たった二人ふたりきょうだいですから、たがいにちからにしてたのが、いまではわかわかれになつて、にさえわからんようになりました。それに、わたしちかいうちちょうせんにつれてかれるのだから、もうこのうことができないかわかりません。」とって、なみだがほおをつとうてながれるのをふきもしないでぼくかおたまますすりきにいた。

ぼくりくほうながらだまってこのはなしいていた。いえいえのともしみずうつってきらきらとゆらいでいる。おとをゆるやかにきしらせながらおおぶねてんをこいで[5]おとこは、んだこえふなうたながす。ぼくはこのときこどごころにもれぬかなしみかんじた。

【选文注释】

[4]本节引自作品的近尾部,道出了女人去朝鲜前把少爷当作弟弟告别的原委,引发了少年的不可名状的悲哀,也表现了作者对生活在明治社会底层妇女的深切同情。

[5]傳馬をこいで行く:“傳馬”是大舢板,此句意为:大舢板上(的男子)缓慢地摇着双橹,发出咯吱咯吱的声响。ft

【作者简介】

くにどっ(1871—1908)原名国木田哲夫。到东京后出入于德富苏峰的“民友社”,作为《青年文学》的同人经常发表评论。中日甲午战争时期在《国民新闻》报开出“爱弟通信”专栏,其文笔受到广泛注目。诗歌创作受英国诗人华兹华斯的影响,反映自然美,诗歌代表作是《独步行》。散文集《武藏野》大体反映了作者的浪漫主义情怀,是精美而带有诗意的杰作。后转写小说,代表作有《酒中日记》《穷死》《牛肉与马铃薯》《命运论者》《源叔父》等,被誉为明治时代短篇作家的“第一人”。

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