12 乡村教师/田舎教師

12 乡村教师/田舎いなかきょう

田山花袋

【作品梗概】

林清三中学毕业后到埼玉县羽生的弥勒小学当代课教师。他眺望着平原尽头的远山,心里充满了哀愁。他的父亲足利原来是开绸缎店的富商,在清三7岁那年家境开始破落。小时候他有很多兄弟,可如今只剩下他孤身一人,因此,每每想到自己的贫穷和不幸,他心里就十分难受。

清三看到自己的同学到东京去升学,想到他们鹏程万里的将来,心中羡慕不已,可自己却因为家里穷,想去也去不了。他在日记里哀叹:“哎,我这辈子就要当一名乡村教师了。他立志搞文学,并向同人杂志投稿。经邮电局工作的荻生秀之助的熟人——成愿寺住持的介绍,清三认识了诗人山形古城,诗人安慰并鼓励了他。以后,清三就寄宿在成愿寺中。到了暑假,清三深居简出,埋头创作,结果却令人大失所望,落到只能靠给朋友写信或写日记来聊以自慰的地步。

清三悄悄爱上了朋友的妹妹北川美穗子,当时她正在浦和女中学习,可是,清三中学时代的好友加藤郁治偏偏也爱上了美穗子,郁治考上高等师范学校后,清三只能眼看着他和美穗子的感情不断升温,自己却无能为力。过于平淡的乡村生活使清三感到疲倦,绝望和孤独使清三开始沉沦。他的兴趣从文学到音乐,从音乐到植物采集,渐渐地失去了光彩。他常去酒馆和妓院,把妓女静枝幻想成美穗子去追求,还把“无言、沉默、实行”当作座右铭,决意听凭命运的安排。他每月的工资微薄,终于落到负债累累的境地,又染上了结核病,身体一天比一天衰弱。最后,他躺在病床上,听到日俄战争中日军攻占了辽阳的消息后,默默地把战死者和在绝望的病床上苟延残喘的自己做比较。就在人们庆祝战胜的祝捷会进行之时,清三死了。

【作品鉴赏】

长篇小说《乡村教师》是1909年出版的。作者到埼玉县羽生福建寺当住持的表兄太田玉名(小说中的山形古城)处去时,看到曾在这个寺庙中寄宿的小林秀三(小说中的林清三)留下的日记,读后很激动。以后,作者又多次进行实地调查,体验生活,并经过长时间的构思才写成。

当时,日本在日俄战争中取得了胜利,正处在国家兴盛、资本主义垄断经济发展的时期。然而,一些中小商人却受到种种压迫,遭到破产的厄运。本作品客观、真实地描写了这一时代背景下一个破产商人家庭出身的青年教师由于贫困、孤独而死去的悲剧。通过这一悲剧,作者把日本资本主义的飞跃及国家主义的发展和受到压抑的个人生活及穷困潦倒的青年人的命运做了鲜明的对比,因此,小说一出版就受到好评。人们说它“以忠实和生动的描写,逼真地写出了鲜活的人生”。在日本北关东平原美丽的自然景色的衬托下,一个踌躇满志的青年因贫困而失意、失恋、沉沦,最后凄凉死去的悲惨故事曾感动过不少日本读者,这是因为作者用了平易、印象的手法进行描写,使作品具有一种单纯和朴素的美。尽管清三这个人物形象显得很软弱,似乎还有点过于多愁善感——这是小说的不足之处,也是当代日本青年颇不以为然的,但是,本作品仍然不失为近代日本文学作品中一部富有现实意义的名作。值得一提的是,作者本人也很贫穷,踏入文坛后一度在坎坷的道路上挣扎前行,所以,清三身上有着作者本人的身影,作品中不少情节正是作者本人体验的再现。评论家小田切进说,这是“主人公和作者的同化”,对作品的真实性给予了较高的评价。

选文[1]

ぜんこっをもってうずまるというがあった。じんみんばんざいこえきゅうじょうおくまでこえたということがいてあった。よるちょうちんぎょうれつこうえんからうえこうえんまで[2]つづいて、さくらもんきんさきもんきんはほとんどひとうずめらるるくらいであったという。きょうばしほんばしおおどおりには、すうまんしょくでんとうひるのようにかがやきわたって、はなでんしゃ[3]とおるたびにばんざいこえしゅうこえたという。

せいぞうはもうじゅうぶんがることができなかった。ようたいいちにちわるくなった。さくじつ便べんじょからはうようにしてかろうじてとこにはいった。でも、そのまくらもとには、こくみんしんぶんとうきょうあさしんぶんとがかれてあって、やせこけてほねったときどきそれをげてる。

りょうようせんりょうはじめてれたとき、かれはかぎりないよろこびをかおたたえて、

かあさん!りょうようれた!」

とさもさもうれしそうにった。

それからいろいろなはなしははおやにしてきかせた。せんなんにんというしょうしゃはなしをもしてきかせた。せんそうはなしをするときは、びょうなどはわすれたようであった。あおじろいやせたかおにもほのかにのぼった。て、しんぶんなどはまないほうがいいとった。びょうにんしんにしても、こまかいかつ辿たどるのはずいぶんなんであった。ってもふんっていられない。つかれてじきそばにいてしまった。ときにははんぶんみかけたページを、ひげえたやせたかおうえとして、しばらくじっとしていることなどもある。(略)

かばねとなってよこたわるつう、そのになったら、めいでもなんでもないだろう。こいしいだろう。こくこいしいだろう。ふるさとこいしいだろう。しかしそれらのひとたちもわたしよりはこうふくだ——こうしてぼうもなしにやまいとこよこたわっているよりは…。こうおもって、せいぞうははるかにまんしゅうのさびしいへいよこたわったどうほうおもった[4]

【选文注释】

[1]本段引自《乡村教师》第六十一章,叙述主人公林清三在病危时刻听日俄战争中日军攻占辽阳的消息时的心情。由于日本和沙俄帝国的这场战争旷日持久,许多日本人卷入了战争,所以当辽阳战斗打响时,日本国民普遍十分关心战况,连病入膏肓的清三也不例外。他一面为战争胜利而高兴,一面又可怜那些陈尸疆场的同胞,可是他更可怜的是自己。迅速走向军国主义的日本帝国的穷兵黩武和贫病交加、在死亡线上挣扎的青年的命运在这里形成鲜明对比,从而生动地体现了本作品的现实主义意义。

[2]日比谷公園から上野公園まで:日比谷公园是位于东京市中心千代田区的一个西式公园,有日比谷公会堂和露天音乐堂等设施。1903年开园前是练兵场,明治、大正时代民众常在这儿举行各种集会。上野公园位于东京台东区。

[3]花電車:即用电车做的花车。

[4]清三此时进入昏迷状态,一小时后,他就死了。ft

【作者简介】

やまたい(1872—1930)原名田山录弥。日本自然主义小说家。15岁时随全家一起迁到东京,曾学过桂圆派和歌,后又拜尾崎红叶为师发表小说习作。早期作品平板单调、技巧拙劣、词汇贫乏。后又当编辑、随军记者等,此间认真研究了福楼拜、莫泊桑、龚古尔等人的作品。1904年受左拉影响发表评论《露骨的描写》,提倡自然主义文学,开始引起文坛注目,成为该文学流派的代表作家。主要作品还有《棉被》和三部曲作品《生》《妻》《缘》等。

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